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○月という名の天使

 

第四話

 

 空は重苦しい鉛色の雲を垂れ込め、霧のような細かな雨が降っている。

 地雨とでも言うのだろうか、ここ数日、陰鬱な雨がずっと降り続いていた。

 そんな雨の中、学校の校舎はまるでただのコンクリートの山のように、薄暗がりの中に佇んでいる。

 暗い校舎には、ほとんどの明かりが消えていた。既に終業時間が過ぎていたからだ。一部、職員室に明かりがついているが、静けさを破る物は何もない。

 そんな生気のない学校内に一つ、黒い生気とでも言うのだろうか、瘴気漂う部分が存在した。

 クレゾール臭漂う白い部屋。学校の保健室であった。

 今は誰もいない筈の保健室に、誰かのくぐもった声が聞こえる。

 女の声。苦しむような女の声。苦しむような少女の声。少女の甘い嬌声。

 声の主はベッドに縛られた少女であった。

 少女の白い裸身が闇の中で艶めかしく蠢く。白磁の肌にはじっとりと玉の汗が浮かび、柔らかな肌を撫で落ちる。

 細く、華奢な四肢をベッドの四隅に縛られ、もじもじと身を捩る少女。

 そんな少女の傍らに、幽玄の趣を漂わせた一人の女性が立っていた。暗闇の中で見るその白面は異様に際立っており、瞳には情欲に燃えた炎がちろちろと燃え立っている。女は凄惨な笑みを浮かべると、狂気に歪んだ瞳で少女の身体をねぶり回した。汗ばみ、甘い体臭を漂わせるその身体。羞恥に色づく頬。恐怖に歪む瞳。

 白く細い指が少女のへそに触れ、少女ははっとして息を呑んだ。

「可愛いわ。その黒目がちな瞳。柔らかな乳房、きめ細やかな肌。……ぷりぷりと弾けるようなこの身体」

 女はそう言うと少女の顔に覆い被さり、その可憐な唇を塞いだ。

 嫌悪に藻掻き、暴れる少女。しかし、四肢を拘束されていては身動きすらままならない。

 女は少女の口を思う様蹂躙すると名残惜しそうに顔を放した。

「ほんとに美味しそうな身体。食べちゃいたいくらい……」

 熱のこもった調子でそう呟くと、女はベッドの上に登り、少女の身体に覆い被さっていった。

 暗闇に降り続く雨音。

 その中に、少女の甘い吐息が混じり始める。

 

「は〜あ、よく降るわね、雨」

 窓辺に頬杖を付きながら、佐緒里は大きな溜息を漏らした。

 その後ろで真奈美が、まるで生気でも失ったかのように机に突っ伏していた。連日の長雨の為に、頭からカビが生えかけているのだ。

「いくら梅雨時だからって、こんなに降り続けなくてもいいのに……」

 ぶつくさと呟く真奈美。

「まあ、ねえ……」

 佐緒里は振り返ると、溜息混じりに相槌を打った。

「佐緒里ちゃん、知ってる?人間って本能的に雨が降ると眠くなるんだって。昔、人類の遠い遠い御先祖様は洞穴に住んでいて、雨が降ると危険が多いので外には出なかったんだって。その時の記憶が今でも受け継がれていて、雨が降ると眠たくなるんだって。まあ、そんなこんなで私も今、とっても退屈で、眠くて、だるくて、暇を持て余していて、でも何もやる気が起きなくて、こうして話をしているのもとても億劫なの。大体みんな、私のことお喋りだとか言うけれど、こんな日がいつまでも続くと口も腐っちゃって、口数も少なくなっちゃうわよ……。今、私のことを初めてみた人がいたら、なんて物静かな美少女なんだろうって思うに違いないわ。あら、美少女ってところはいつものことだけど、物静かだって事は私の新しい魅力大発見、てところね。佐緒里ちゃんはどう思っているか知らないけれど、私だって今日みたいに口数が少なくなることもあるのよ……」

「あ、あの、……ほんとね」

 際限なくだらだらと喋り続ける真奈美。佐緒里は思わず引きつった笑みを浮かべる。

 真奈美は元気のない時でもお喋りであった。しかも、元気がないので喋り方には精彩が無く、聞いている方はかなりうんざりしてしまう。

 佐緒里は雨に煙る景色を眺めながら、またも大きな溜息をついた。

 するとその時、教室の扉が開くと花月がふらふらと入ってきた。先程、体育の授業で膝をすりむき保健室に行ったのだが、どうも様子がおかしかった。

「ほわわ〜〜ん」

 虚ろな瞳でふらふらと歩みくる花月。尋常ならざる雰囲気に、佐緒里は思わず後ずさった。

「ど、どうしたの?花月」

 佐緒里の言葉が耳に届いているのか、花月は佐緒里に不気味な笑顔を見せた。

「………美しすぎる」

 天井を夢見心地で仰ぎ、呟きを漏らす花月。

「はあ??」

 訝しげな顔を見せる佐緒里であったが、花月は気にも留めずに自分の席に座り、へらへらと気持ちの悪い薄ら笑いを浮かべている。佐緒里は真奈美に視線を向けた。情報通の真奈美なら、花月のこの事態を説明をしてくれるかも知れない。

 佐緒里の視線を受け、真奈美は面倒くさそうに手を振った。

「保健室には我が校のマドンナ先生がいるから」

 真奈美はそう言った。

「マドンナ先生って、乙女先生が保健室に?」

「違う、違う。もう一人の方。佐緒里ちゃんは保健室に行ったことなかったの?我が校のもう一人のマドンナ先生は保健室の十念ヶ辻摩耶先生。アダルトな魅力溢れる、ものすごい美人なのよ……。にしても、花月も保健室には初めて行ったみたいね」

 そう言って花月に視線を向ける真奈美。これはもう処置無しと言った感じで、大袈裟に肩をすくめてみせる。勿論、当の花月はそんな仕草など眼中になく、夢見がちな瞳でぼんやりと宙を見つめていた。

「……摩耶先生」

 保健室に思いを馳せつつ、花月の小鳩のような胸は小さく震えるのであった……。

 

「摩〜耶先生〜〜っ♪♪」

 放課後、花から花へと舞う蝶のように、花月は手をはためかせながら保健室へ向かった。その後を、不機嫌極まりない様子で佐緒里が続き、真奈美も気怠い様子ではあったがそれに続く。

 ところが、花月は突然立ち止まった。既に恋敵が保健室の前に並んでいたからだ。美女に弱いのは何も花月だけではない。あちらこちらをすりむいたと言っては、運動部の男子連中が引きも切らずにやってくる。

 立ち止まり、眉根を寄せる花月。佐緒里と真奈美は花月にぶつかると鼻の頭を強かに打った。

「ちょっと、急に立ち止まらないでよ」

 佐緒里が鼻を押さえて呻き声をあげる。

「あう〜。摩耶先生。……恋に障害はつきものなのでしょうか」

 滂沱のごとく涙を流す花月。その耳を、佐緒里は思いきり捻りあげた。

「ちょ、ちょっと佐緒里っち。いた、痛いって……」

「花月ったら、何を浮・か・れ・てるのよっ!!」

 悲鳴を上げる花月であったが、佐緒里は怒りにまかせてぐいぐいと耳を引っ張った。

「い、痛い……。もしかして佐緒里っち、焼き餅を焼いてるの?」

 思わず口走った花月であったが、口は災いの元であった。花月の耳を放した佐緒里は、次は手にした鞄で花月の頭をしたたかに張り倒した。

「も〜おっ!莫迦ぁっ!!」

 花月の目から盛大に星が飛び散り、視界がブラックアウトする。薄れゆく意識の中、花月の耳に真奈美の声がかすかに届いた。

「………お莫迦」

 

 次に花月が目を覚ましたのは、彼女の恋い焦がれていた保健室であった。不幸中の幸いだったか、ともあれ、花月は保健室の中に入ることが出来たわけである。

 かすかなクレゾール臭の中に女性の甘い体臭を嗅ぎ分け、花月はうっとりと呟く。

「………ああ、摩耶先生」

 白いシーツを掴み寄せ、くねくねと身悶える様はあまり見られたものではない。

「あら、気が付いた?」

 パーティションの向こうから、若い女性が聞こえる。愛しの人、麗しの君、保健室のマドンナ、十念ヶ辻摩耶先生である。

 摩耶先生は机に向かって事務処理をしていたが、花月が目を覚ましたと知ると手を止めた。

「具合はどう?」

「………あ、いや、その、なんといいますか」

 摩耶先生の顔を見るや花月の相好はとろとろに溶け始めた。しどろもどろになる花月。

 そして、摩耶先生の向こうから顔を覗かせる佐緒里と真奈美。佐緒里は花月が失神するほど殴りつけたことを後悔していたのだが、美人の保険医にのぼせ上がる花月を見て再び不興げな顔を取り戻した。

「先生、こんな莫迦娘、ぶっとい注射でも刺してやって下さい。そうすれば、のぼせ上がった頭も少しははっきりするでしょ!まったく、でれでれとみっともない………」

 佐緒里の棘のある口調に、摩耶先生は首を傾げた。

「まあ、なに?喧嘩でもしたの?」

「喧嘩なんかしてません!」

 佐緒里は我知らず大きな声を出した。呆気にとられる摩耶先生。自分を取り戻した佐緒里は気恥ずかしさの為に押し黙り、気まずい沈黙が流れた。

 しばしの静寂の後、保健室の扉が開き気まずい静寂が破られた。

 扉を開けて、思わぬ人、乙女先生が現れたのだ。

「あら、今日は随分と珍しいお客さんね」

 ベッドで横になる花月を見て、乙女先生が微笑む。

 摩耶先生と乙女先生。二人の美女がいるおかげで、保健室はかなり華やいだものとなった。美女二人に三人の美少女。保健室のイメージとは随分かけ離れた状況である。

 そんな中、花月は美女、美少女に囲まれて至福の時間を味わっていた。

「……保健室って、良いなぁ」

 小さく呟く花月。

 しかし、そんな恍惚とした花月をよそに、乙女先生は摩耶先生に向き直った。

「ねえ、胃腸薬無い?何だか食べ過ぎちゃったみたいで、胃がむかむかするのよね」

「なぁに、乙女。胃も身体の一部なんだから、もっと大事にしたら?あなたの身体の中で一番酷使されているのは胃なんじゃないの?気をつけないと太るわよ」

「何よ、その言い方。いいから早く胃薬出してよ……」

 摩耶先生は肩を軽くすくめると、溜息をついて薬棚を開けた。

「そんなだから、お嫁のもらい手がないのよ」

「もーおっ!お嫁のもらい手がないのは摩耶も同じでしょ」

「私はいいのよ。結婚なんて堅苦しいもの、する気はないもの」

 摩耶先生はそう言って、頬を膨らませている乙女先生の前に薬の包みと水の入ったコップを差し出した。

 二人の親しげな様子に、顔を見合わせる佐緒里と真奈美。

「あの、乙女先生と摩耶先生って仲が良いんですね」

 普通なら真奈美が質問するところであるが、今回は先に佐緒里が口を開いた。

「腐れ縁ってやつね……」

 薬を水で流し込むと、乙女先生はそう言って苦笑した。それに釣られて、摩耶先生も小さく吹き出す。

「そうそう、腐れ縁ね。私達、小学校の時からの付き合いだから」

 乙女先生と摩耶先生の言葉に、佐緒里と真奈美、花月は目を丸くした。

「えっ、そんなになるんですか?私、初めて聞きました。これは要チェックだわ」

 と、目を輝かせる真奈美。真奈美がお喋り好きで有名であったことを思い出し、乙女先生は苦笑いを見せた。

 そこへ、今まで黙っていた花月がいきなり口を開いた。

「それじゃあ、もしかして、お二人は結婚するんですか?」

 花月にとっては深刻な問題であったが、あまりに突拍子もない質問に摩耶先生は目を丸くし、丁度コップに口を付けていた乙女先生は水を吹き出し、咳き込んでしまった。

「ごほっ!ごほっ!……ちょ、そんなわけないでしょ」

 咽せかえり、顔を赤くする乙女先生。摩耶先生はそんな乙女先生の様子がおかしかったのか、それとも花月の突拍子もない質問がおかしかったのか、俯き、口元を押さえて必死に笑いを堪えていた。

「それじゃあ、ただのお友達なんですね?結婚の予定はないと」

「当たり前でしょ。私達、女同士なのよ」

 何とか正常を取り戻すと、乙女先生はそう言って花月の言葉を否定した。

「ふふふ、面白い子ね」

 目元の涙を拭いながら、摩耶先生はまだ笑いを堪えていた。

「いや、僕は真剣ですよ。愛があれば、性別なんて関係なじゃないですか」

 花月は真剣に力説したが、乙女先生はもはや取り合わなかった。

「はいはい、もう良いから。学校の門も閉まっちゃうから、今日はもう帰りなさい…」

 ぱんぱんと手を叩き、生徒を促す乙女先生。摩耶先生も立ち上がると帰り支度をはじめ、

佐緒里達も鞄を掴んで立ち上がった。

 唯一、花月だけは不服そうな顔をしていたが、ともあれベッドから降りると鞄を持って立ち上がった。

「お互いが好きとか愛しているとかそれが肝心で、性別なんて関係ないと思うけどな……」

 ぶつぶつと不平をこぼす花月。そこへ真奈美が悪戯ぽい瞳を向ける。

「それじゃあ花月は、男の子とかとも付き合いたいとか思うわけ?」

 真奈美の質問に、花月は間髪入れずに返事をした。

「絶対イヤ」

「あはは、花月ってば変」

 

 花月達が学校から立ち去ると、その校舎からは生命あるものの息吹は消えた。

 冷たい光沢を放つビニールタイルの床。非常灯の小さな明かりに照らされて、何者かの影が長く伸びると、その主は音もなく歩を進めた。

 外は静かに雨が降っており、その為、校舎内には月明かりなどが差し込むことはない。外灯のある部分だけがわずかな光を提供している。

 そしてその明かりに、侵入者の横顔が照らし出された。

 それは緑なす黒髪の美少女、ミナであった。

 ミナは獣人事件が終わってからも、この学校を監視していた。霊象と言うのはその質量の大きさによって増大する。そんな意味に於いて学校校舎というのは恰好の霊的スポットになりやすい。その上、この狭い空間に大勢の人間が押し込められ、大量の精神エネルギーを発散しているのである。七不思議と言わず、学校にまつわる都市伝説が多いのもこの為であろう。

「それに、この学校には通常以上の瘴気が感じられる。花月様がこの学校に現れたのもそれが理由の筈………」

 ミナは誰に話しかけるともなく呟いた。

 そして、保健室の前で立ち止まる。

「………ミナ」

 保健室の扉に手をかけようとした瞬間、誰かに声をかけられてミナは身体を硬直させた。ミナの五感は通常の人間では感じられないような気配も感じることが出来る。そのミナに気取られずに近づいてきたと言うことは、それだけで相手が尋常ではないことを物語っているからだ。

 恐る恐る振り返るミナ。そこには闇が広がっていたが、ミナの視界には昼間よりもよく見通せていた。

 そして、その闇の中に佇んでいたのは金髪の美少女。二ヶ月ほど前に花月のクラスに転校してきた櫻小路マリアであった。

 当然、ミナとマリアは面識がなかった。いや、無いはずであった。しかし、マリアの姿を一目見たときからミナの様子は違っていた。

 目頭が熱くなり、唇が興奮に震える。

「あ、あなたは……」

 ミナは上擦った声を漏らした。しかし、マリアは悠然とミナに近づくと、腰を屈めてミナの瞳を覗き込んだ。

「この学校は刺激に満ちているわね」

 そう言ってマリアは悪戯っぽい笑顔を見せると、くるりと身体を翻した。

「わたしは、あなたをずっと捜していたのに……」

 ミナの頬を、熱い涙が伝う。

「捜していた?私を殺す為に?」

「殺すだなんてそんなこと……」

 マリアの言葉に、ミナは慌ててかぶりを振った。しかし、マリアは冷たい瞳をミナに向ける。

「そうよね、私をこんな風にしたのはあなただもの。殺すつもりならそんな残酷なことはしないはずよね。それとも、人を玩具にするのはもう飽きたという事かしら?」

「私は、私はあなたを助けたいと思ってっ!!」

 ミナは喘いだ。しかし、マリアは変わらずに冷たい視線を向けたままであった。

「助けたい?助けたいと思って私をこんな身体にしたの?こんな化け物に?」

 そう言うとマリアはその端正な顔に爪を立てた。赤い血の筋がいく条も出来、血が頬を濡らし、顎を伝う。

 皆は思わず顔を背けたが、そんな必要は無かった。マリアの顔に出来た醜い傷は次の瞬間には綺麗に消え、手で血を拭うとそこには元の愛らしい頬があった。

「私はあなたを助けたいと思った。あなたを失いたくなかった。今でもそれは変わらないわ。お願い、私と一緒に来て。ヘルシング教授ならきっとあなたを助けてくれるわ」

 ミナは懇願したが、金髪の美少女は嘲笑った。

「助ける?あなたの今の姿が救われた姿なの?例えあの老いぼれでも私達を、…私を助ける事なんて出来やしない。それよりも、私の姿を見た瞬間に、銀の弾を撃ち込むのが関の山よ」

「そんな事はないわ。私はあなたを助けたい。きっと助けてみせる!ヘルシング教授だって力になってくれるわっ!!」

 ミナは熱意を込めてマリアを説得しようとしたが、逆にそれがマリアの癇に障り、マリアはその端正な顔を怒りに染めた。

「はっ!あなたは何も変わらないわね!その押しつけがましさには虫酸が走るわ。あなたは憐憫の心を他人に向けているようで、その実、哀れみを向けているのは自分自身なのよっ!私に冷たい命を吹き込んだのだって、自分が私を失いたくなかったから。私の気持ちなんて何も考えていないのよっ!!人に優しさを見せるのは全て自分の為。自己満足の欺瞞によるものだわっ!!!」

「……そんな事」

「そんな事、無いって言うの!?だったら、こんな化け物にされて誰が喜ぶって言うの?それともお仲間が欲しかったのかしら?神祖にノスフェランにされて、自分一人じゃ寂しかったのかしら?それなら他の誰かを仲間にすればよかったでしょ!?どうしてそれが私なのよっ!!!」

 冷笑的な態度を一転させて、マリアはミナを罵った。マリアの一言一言はミナの心を深くえぐり、閉じることのない傷口を残す。

「……私は、あなたを失いたくなかったから。例えどんな形でも生きていて欲しかったから」

 苦渋に満ちた表情でミナは呟いた。

 マリアは自分を押さえるように呼吸を整えると、再び皮肉な笑みを浮かべてミナを見下ろした。

「そう、私は生きていると言えば生きているわね。そして闇の生を謳歌しているの。生きる為に他人の命をすすり、人の悲しみを糧としているのよ。この何百年を生きてきて、あなたは何人の人間をその手に掛けたのかしら?私はもう数え切れないくらい殺したわね。最初は悲しくて、惨めで、涙が流れたけど、今はもう心も渇いて何も感じなくなっているわ。だってそうでしょ?人が家畜を殺して食べるのに、いちいち涙こぼすなんておかしいもの……」

「………お願い、やめて」

 ミナは耳を塞いでマリアの言葉を閉め出そうとしたが、ミナの聴覚はそれを許さなかった。そして、当然聞こえているであろうミナの言葉を、マリアは敢えて無視した。

「私はノスフェランとしての自覚に目覚めたの。柔らかな喉笛を噛み裂いて、溢れ出る真っ赤な血をすする。暖かな血液と共に生命が流れ込んできて、私の冷たい身体を癒していくのよ」

「聞きたくない。お願い、もうやめて……」

 膝をつき、すすり泣きを漏らすミナ。小さな方が小刻みに振るえ、熱い涙がぽろぽろとこぼれ、床を濡らす。

 そんな様子を、嫌悪に歪んだマリアは見つめた。そして、忌々しげに呟く。

「私は……」

 言葉が途中で途切れたが、マリアは大きく息を吸い込むと、今度ははっきりと聞き取れる声で告げた。

「私はあなたを許さない。今度、会うときには躊躇わずにその首を切り落とすわ。だから、もう二度と私の前に姿を現さないで……。もう、二度と…」

 悲しげにリフレインするマリアの言葉。ミナが彼女を引き留めようと顔を上げたときには、もはやマリアの姿は消えていた。

 そこにある空間はただ闇ばかりで、窓の向こうには冷たい雨が音もなく降り続いていた。

 

 一方その頃、花月はスーパーで買い物かごを下げ、味噌鯖缶を神妙な面持ちで見つめていた。

「う〜〜む、今宵は贅沢に味噌鯖缶を買おうか、それともやめにするか。悩むところだにゃ〜……」

 ちらりとかごを覗き見る花月。中にはカップ麺が一個。ウルトラ麺セブンしょうゆ味と派手なロゴで書かれているものの、カップ麺一個とはいささか寂しい。

「ここはやはり味噌鯖缶を買うべきか…。でも、一時の快楽に身を任せて、後で後悔することになっても………」

 腕を組み、考え込む花月。

「そうだ、お総菜のコーナーに行ってみよう。何か安い味噌鯖があるかも知れない」

 はたと思い至り、花月はお総菜コーナーに向かった。安かろうが、なんであろうが、味噌鯖としか思いつかないのは花月の発想力の貧困さ故か。

 ところが、お総菜コーナーに着いた花月は再び悩み始めた。

「むむ、味噌鯖があるにはあるんだけど」

 味噌鯖はあるにはあったが、値段が缶詰の物より高かった。パックに一切れ入って二百三十円。味噌鯖缶は二百円である。

 味噌鯖を前にして花月は渋面を作り、深い溜息を漏らした。

「神様は僕に味噌鯖を食べるな、とでも言いたいのだろうか?」

 しばらく考え込んでいた花月であったが、いつまでも考え込んでいても仕方が無く、あきらめて帰ろうとしたその時、神の奇跡が目の前に繰り広げられた。

 どこからともなくスーパーの店員が颯爽と現れ(少なくとも花月にそう見えた)、おつとめ品のシールを貼り始めたのだ。勿論、味噌鯖も例外ではなく、赤い文字で「おつとめ品、五十円引き」というシールが誇らしげに貼られていた。

「おお、父よ。天の主はまだ僕を見捨ててはいなかったのですね」

 大袈裟に感謝の言葉を呟くと、花月は味噌鯖に手を伸ばして買い物かごに放り入れた。

 さっそくレジに向かおうと、花月は喜んで振り返ったが、たまたま通りがかった買い物客にぶつかってしまった。

「ご、御免なさい……」

 慌てて頭を下げる花月であったが、ぶつかった相手の顔を見てあっと驚きの声を漏らした。

「花月、…さん?」

 花月がぶつかった相手は、男子生徒の憧れ、保健室のマドンナ、十念ヶ辻摩耶先生だった。

「ま、摩耶先生……!?ど、どうして此処に??」

 花月も驚いたが、摩耶先生もかなり驚いた様子を見せている。

「私はこの近所に住んでるから……。花月さんはお使い?」

「いえ、僕は一人で暮らしているので、夕食の材料を買いに……。こう見えても僕は料理が得意なんですよ」

 そう言って胸を張る花月であったが、摩耶先生はいささか懐疑的であった。何しろかごの中にはカップ麺が一個、手には出来合いのお総菜パックが握られているのだから。

「一人暮らしって、ご家族は?」

「か、家族ですか??ええっと、母親は知りませんが厳格で怒りっぽい父親が一人。兄弟は星の数ほどいますが、あまり顔を合わせることはないですね」

 花月は有り体に言ったつもりだったが、摩耶先生はどういう訳か同情の瞳を花月に向けた。

「まあ、御免なさい、言いにくい事を聞いてしまって……。それにしても花月さん、年の割に苦労してるのね……」

「はあ?苦労、ですか。別に僕は苦労しているとは思っていませんが。それに自炊は好きですし、結構楽しんでいるんですよ」

 花月はそう言って笑ったが、その笑みはすぐに引きつった物に変わった。摩耶先生が花月のかごの中を確認し、深々と溜息をついたからだ。

「あ、あの、これは好きで買った物なんですよ。僕、このカップ麺と味噌鯖を合わせるのが好きなんですよ。飴色に輝く味噌鯖を冷えたご飯の上に載せて、熱いカップ麺のスープと共にいただくんです。美味しいですよ」

 花月はそう言って弁解したが、摩耶先生は聞いてはいなかった。

「いいわ、今日は私の家にいらっしゃい。そんな物ばかり食べていると体に毒だから」

 そう言って花月の手を掴む摩耶先生。花月はそのあまりの衝撃に、心臓が破裂しそうになった。

「あ、いや、摩耶先生。僕はその、心の準備が。いえ、先生……いえいえ、摩耶さんのお気持ちは嬉しいのですが、嬉し恥ずかしって言うか、その、意外に積極的なんですね……」

 あれこれ言葉を並べ立てるものの、摩耶先生はまるで耳に入っていないようで、買い物かごに食材をどんどん詰め込むと、レジをさっさと済ませて店を出た。無論、花月も一緒にである。 

 

「これが、摩耶先生のお部屋………」

 花月が案内されたのは小さなアパートであった。外見の見栄えはあまり良くなかったが、部屋の中は意外に広く、調度品も立派な物が揃えられていた。

「御免なさいね、散らかっていて。それに、ちょっと子供っぽい部屋でしょ?」

 台所に買い物袋を下ろしながら、摩耶先生はちょっと苦笑いを見せた。

 成る程、摩耶先生が言うように、部屋の中はいささか少女趣味であった。大きな縫いぐるみや人形が飾ってあり、全体にピンクをメインにしたパステル調で彩られている。レースやフリルが溢れた部屋。

 しかし、花月にはそれが不似合いなものには思えなかった。むしろ愛らしくはにかむ摩耶先生によく似合っているとさえ思えた。

「いつまでもこんな少女趣味をしていて、乙女にもいい加減に卒業しろってよく言われているのよ」

 そう言って、台所で料理の支度を始める摩耶先生。花月はその細い肩を抱きしめたい衝動を必死に堪えるのだった。

 白いレースのカーテンが揺れ、その向こうには静かに雨が降り続いている。

 雨粒の流れる窓の向こうに、女郎蜘蛛が巣を張っていた。


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