○月という名の天使

 

第三話

 

 闇の中で小さな光が二つ見える。赤い小さな光が残像を残し、ゆらゆらと明滅する。

 そして荒い息づかい。熱に浮かされているようでもあり、また、獣がせわしなく喘いでいるようでもある。

 コトリと、暗闇の中で物音がした。

「母さん、母さん、僕は母さんを愛していたんだ………」

 くぐもった声。

「僕が悪いんじゃない、あいつが、あいつが………」

 荒い息と共に、嗚咽が漏れ始める。

「僕は、あいつの声が聞こえると、………あいつが悪いんだ」

 声は次第に乱れ、やがて狂気を帯びてくる。

「あいつが、あいつが悪いんだっ!僕は母さんを愛していたんだっ!!僕は、あいつが、あいつの声が………。あいつが悪いんだあぁあっ!!」 

 次の瞬間、暗闇を赤光が駆逐する。夕陽が空間を照らし出したのだ。

 そこに現れたのは普通のリビング、そして母親に甘える少年。しかし、辺りは荒れ果てており、鼻を突く腐敗臭が漂っている。

 椅子に座る母親は少年に優しく手を伸ばすこともなく、力無く椅子にもたれかかっている。

 リビングにこもる腐敗臭は、そこから漂っていた。

「あいつに言われたから、母親をそんな風にした?」

 声がして、振り返る少年。

 そこには、端正な顔をした美少女が立っていた。

 しかし、少年は驚いた様子を見せず、涙を流して抗弁する。

「僕じゃないっ!僕じゃないんだっ!!あいつが悪いんだっ!」

 そんな少年の様子に哀れみの目を向ける少女、花月。

「あいつ?“あいつ”て誰?今も聞こえるの?“あいつ”の声が………」

「あいつが、あいつは………、あいつは母さんを殺せと言ったんだあ………」

 動かぬ母親にすがり、その膝に顔を埋める少年。

「“あいつ”なんていないよ。………“あいつ”なんていない。此処にいるのは僕と、君と、君の母親だった“もの”だけさ」

 花月のその言葉に、少年は異常に反応した。

 その瞳は狂気に赤く燃えている。

「違うううううっ!!あいつは、あいつは僕に母さんを殺せと言ったんだああっ!!!」

 立ち上がり、苦しそうに胸元をかきむしる少年。

「まただ、あいつの声が聞こえる………。気持ち悪い……。身体の中から、何かが這い出してくるような………」

 

―血ト皮ガヒックリカエルッ!!―

 

 次の瞬間、少年の身体はぞわぞわと変貌を遂げ、そこには兇眼をちらつかせる獣が立っていた。

「この少年が一連の野犬騒ぎを起こしていたんですね………」

 今まで何処にいたのか、ミナが姿を現す。

「残念だけど、この子は自力でノスフェランになったみたいだね。まだ、入り口にいるみたいだけど。ミナちゃんの探している始祖の類は関係ないみたい」

 花月の言葉に、ミナは頷き返す。

「始祖が絡んでいなくても、ノスフェランを放っておくことは出来ません。私の様な者を増やさない為にも」

 そう言って額の痣に手を添えるミナ。獣人の瘴気に当てられ、十字の痣が熱く疼き出す。

「グアアアアアアアアッ!!!」

 咆吼を上げる獣。

 ミナは咄嗟にニードルを飛ばした。

 しかし、魔獣は意に介さず、花月達目掛けて飛びかかった。

「うわっ!」

 思わず頭を抱える花月。

 獣の狙いは花月達にはなく、そのまま小さな庭へ飛び出すと塀を越え、道路へと逃げ出した。

 日は既に落ち、辺りは夕闇に沈んでいる。

 花月達も獣の後を追い、道路に飛び出した。幸い辺りに人影はなかったが、獣の姿も見えなかった。

「ミナちゃんっ、追える?」

 花月の言葉に応じ、ミナが獣化する。

「奴の後を追いますっ、ついてきて下さいっ!」

 ミナが走り出し、花月もそれに続く。

 

 数刻後、花月達は学校に辿り着いていた。

 最近の事件で学校には人影はなく、辺りはしんと静まり返っていた。

 見上げる校舎の質量は圧倒的で、音を立てて流れゆく雲は建物の不気味さを増していた。

「あいつ、此処に来たの?なんで学校に??」

 首を傾げる花月。

「さあ、そう言えば、一連の事件も学校の周辺で起きていますよね。襲われたのもこの学校の生徒ばかりだし………」

 不意に、花月の脳裏に真奈美の言葉が甦る。

『何でも、ノイローゼらしいって噂なの。今年の春、私学の試験を受けたらしいんだけど、ものの見事に落ちたらしくて、それが原因でお母さんとの仲も折り合いが悪くなったって……』

 一瞬、立ち止まる花月であったが、ミナに声を掛けられ、跳ね上がる。見るとミナはその姿を少女に戻している。

「花月様、この用具室の中です………」

 校庭の隅にある用具室。

 気配を探るように、花月はゆっくりと近づいた。

「どうしてこんな処に来たんだ?神矢君」

 花月の言葉に、用具室がガタリと揺れる。

「花月様、あの少年はもう、人の言葉を覚えていません………」

 花月はミナの言葉に応えなかった。

 そしてミナの言葉通り、狂気に目を光らせた獣が、低く唸りながら姿を現す。

 魔獣は姿勢を低くして、強靱な後ろ足で地面を蹴ると、今度は牽制ではなく、牙を剥きだして花月に飛びかかった。

 黒い影がかすめると花月の肩が裂け、血が滲んだ。

 立ちつくす花月。

「花月様、油断しないで下さい」

 ミナが切迫した声を出すが、しかし、その声に花月は反応しない。

「一体どうしたんです?」

 ミナの問い掛けに、花月は怪訝な顔を向ける。

「どうしてなんだろ?………」

「………花月様?」

「だって、そうだろ?神矢君は受験して行きたい学校があったんだ、それが駄目になった。だったら、ノスフェランになって執着を見せるなら、それは行きたかった学校じゃないのかな?」

 花月の言葉に、ミナも思案するが、目の前の敵を忘れはしなかった。ニードルを構え、魔物を油断無く牽制する。

「ノスフェランになる前の執着は私には分かりません。でも、分かることは一つだけ、、魔道に落ちた者は元には戻れない」

 そう言うと、ミナは手にしたニードルを放った。

 しかし、魔獣は難なくそれを躱す。

「魔道に落ちた者は人の心を失う。でも、それまでの執着には何故か捕らわれてしまうんだ」

 呟く花月。

 今度はミナはそれに応じない。

 振り返り、頭を下げて再び攻撃の態勢をとる魔獣。

 ミナの顔が青ざめる。

「グアアアアアアアアッ!!」

 更に襲いくる魔獣。立ちつくす花月をミナが押し倒して難を逃れる。

 しかし、ミナの背中が切り裂かれ、血が滲む。

「ご、ごめん、ミナちゃん……」

 花月は傷ついたミナの下で狼狽えた様子を見せる。

「心配いりません、花月様。私の身体はこれくらいの傷は何ともありませんから。それより、目の前の敵に集中して下さい……」

 そう言って起きあがり、身構えるミナ。しかし、花月の動きはやはり重かった。

「何をしているっ!花月、そやつはもう魔道に落ちている、救う手だてはないんじゃぞっ!!」

 老人の怒声が飛ぶ。車椅子に乗ったヘルシング教授である。

「でも、神矢君は………」

 何事か言い募ろうとする花月。その言葉を、ヘルシングは乱暴に切り捨てた。

「その甘さが事態を悪化させるというのが解らんのかっ!!貴様のその甘さには反吐が出るっ!!儂等の邪魔をするのなら此処から去れっ!!」

「あんただって、ミナちゃんを救おうとしているじゃないかっ!!!」

 花月は似合わず声を荒げた。

 しかし、自分の失言に気が付いた花月は沈痛な面持ちのミナに謝罪の言葉をかける。

「……………御免、ミナちゃん」

「いいえ、そんな事よりも、今は目の前の敵に集中して下さい。あのノスフェランは、魔道の入り口にいると言っても、その事で自制が利きません。手を抜いて何とかなる相手では……」

 ミナの言葉に花月は大きく頷くと、膝の汚れを払った。

「むうぅっ、僕としたことが、とんだことだね……‥。ともあれ、僕が君の同情をしたところで、何が変わるわけでもないから、サクッと行くよ♪」

 鼻の頭を撫で、不敵に微笑む花月。

 次の瞬間、花月の姿が炎に包まれ、その背から白い翼が飛び出した。

「むう、月の天使ツァフィエルが光臨したか………」

 呟くヘルシング。花月の姿は今や瑞光に包まれ、見る者に畏怖の念を沸き上がらせる。

「神は人を土で作り、天使を火で作った、ってね」

 花月の手から炎が上がり、一振りの剣が現れる。

 一瞬、怯む魔獣であったが、直ぐに気を取り直し、花月に挑む。鋭い跳躍を見せて飛びかかる魔獣。

「そおれっ♪」

 魔獣の下をくぐり抜け、剣を振り上げる花月。

 一条の光と共に獣の脇腹が赤く裂ける。しかし、致命傷には至らなかったらしく、着地した獣は直ぐに振り返る。

「ちえっ、一瞬出遅れたかな?」

 ひゅっと言う音と共に、剣についた血糊を振り飛ばす花月。

「魔道に落ちてしまう人間は、その心の弱さから君のような化け物に変身してしまうんだ。自分を見失い、人間を襲い、やがては凶悪なノスフェランとなる」

 魔獣に向かって駆け出す花月。

「君は母親を愛していた。でも、君はその愛情を表現する方法を間違った。それが君の内なる声を生んだんだ」

 咄嗟に間合いを詰め、怪物に向かって剣を振り下ろす花月。

 逃げようとした怪物は額を割られて血を吹き出す。

「ぐああああああああっ!!」

 悲鳴を上げる怪物。

 のたうち回る怪物を、花月は傲然と見下ろした。その表情に、先程までの迷いはない。

「ノスフェランはこの位じゃ死ねないんだ。そして、僕も君を殺すつもりはない。………君は神の炎に裁かれるんだ。………ジャッジメント」

 花月の言葉と共に、剣から炎が立ち上る。熱を持たない、霊的な炎である。

 花月はその剣を正眼に構えると、その炎の剣で獣を両断した。

 魔獣は苦悶の声をあげるが、その身は剣に切られた訳ではなかった。神の炎に包まれる魔獣。

「その炎は裁きの炎。君の罪が許されるものなら、その火は君を滅ぼしはしない…」

 炎の中でその正身(むざね)を現す魔獣。それは魔道に落ちる前の神矢少年であった。

「………僕は、母さんの期待に応えられなかったんだ。僕は母さんの期待に応えたかったんだ」

 炎の中、涙と共に呟く少年。

 やがて、その炎は威を衰えさせ、花月の表情がほころぶ。

「君の罪は許されたんだっ!!」

 少年に駆け寄る花月。

 しかし、少年は項垂れたまま顔を上げようとはしなかった。

 肩を震わせ、嗚咽を漏らす神矢少年。

「僕は、僕は………。うわああああああっ!」

 叫び、立ち上がる神矢少年。胸元をかきむしり、身悶える。

「神矢君っ!?」

 狼狽える花月。

「駄目なんだ、駄目なんだよっ!!僕は、……僕はこの手で、母さんをっ!!」

 全身の毛が逆立ち、少年の身体から再び負の感情が吹き出し始める。

「そんな、戻っちゃ駄目だっ!そこは君のいる場所じゃないんだっ!逃げちゃ駄目だっ!神矢くんっ!!」

 悲鳴を上げる花月。

 しかし、少年の身体はまたも獣化を始める。

「………僕は何処にもいられないんだ。いちゃ、いけないんだ」

 花月に向かって、悲しげな笑みを浮かべる神矢少年。

「何処にもいられないなんて、そんな人間いるもんかっ!!」

 絶叫する花月。

 次の瞬間、タンッ!という乾いた音と共に、神矢少年は地面に倒れ伏した。

 胸には黒々とした穴が穿たれており、赤い血がどくどくと溢れだしている。

 呆然として振り返る花月。そこには車椅子に乗ったヘルシングが銃を構えていた。

 紫雲が銃口から棚引き、やがて消えゆく。

「………教授」

 ミナが戸惑いの声を漏らす。しかし、ヘルシングは憮然として何も答えなかった。

「どうして、どうしてなのさっ!?」

 叫ぶ花月。

「…………それが甘さというのだ。確かにあの者は許されたかも知れん。しかし、あの者は自分で自分が許せなかった」

 ヘルシングの言葉に、花月はかぶりを振った。

「そ、そんなことっ!」

 花月の非難を、ヘルシングはまるで意に介さなかった。車椅子を回し、その場を離れ行く老人。

 花月はヘルシングを追いかけようとしたが、思い直して立ち止まる。

 沈痛な面持ちで黙祷を捧げる花月。

 見ると、少年の表情は穏やかで、安らかなものであった。

 しかし、少年の死に顔が安らかであればあるほど、花月の胸の内に言い知れぬ怒りと悲しみがこみ上げてくる。

「お母さんに会えるといいね………」

 花月が手にした剣を構えると、その先に小さな火が点った。

 切っ先を少年に向ける花月。穏やかな炎に包まれ、昇天する少年の魂。

 

「あのお爺さん、まだ生きていたんだ。常命の身で、とんでもない長生き………。ホントに人間かしら?」

 校舎の陰から、花月達の一部始終を見続けていた二つの瞳。

「何かに依存しなければ生けてはいけない。他人に罪を転嫁しなければ自責の念に潰されてしまう。ノスフェランとしても人間としても下の下ね………」

 それは昼間、花月達のクラスに転校してきた少女、櫻小路マリアであった。

 蜜色の髪の毛をふわりと掻き上げ、悪戯っぽく微笑む少女。

「それにしてもミナ、面白い娘と友達になったわね。あれじゃあ、この私でも手を焼きそう。…………でも、この学校にはまだ色々とお楽しみが揃っているわよ。次はそう簡単にはいかないんじゃないかしら」

 少女はクスリと微笑むと、闇の中に溶けて消えた。

 

 翌日。

 学校の屋上に花月はいた。天を仰いで寝転がる花月。青い空は目に痛く、気持ちが良い反面、吸い込まれていくようで、また、落下していくようでもあり少女はその感覚をしばし楽しんだ。

「結局………」花月は呟いた。傍らには蝙蝠が一匹、ちっちと舌を鳴らして毛を繕っている。

「何やってるんだろうね、僕は」

 大きく溜め息をつく花月。

「な〜に?溜息なんかついて。花月でも物思いに耽ることがあるんだ?」

 ふと見ると、佐緒里がいつの間にか立っていた。

 蝙蝠は何かに気をとれたように飛び立つ。

「さおりっちぃ、酷いなその言い方は。僕だってメランコリーになることはあるよ」

 そう言ってふてくされる花月。

「あ、ははははははっ!か、花月がめらんこりい?似合わない〜っ!?」

 お腹を抱えて笑い出す佐緒里。花月はこっそりと頭を移動させ、スカートの中を覗く。

「(うむうむ、今日は水色のチェック柄か。流石はさおりっち、今日の僕の気分を……)」

 花月の視線に気が付き、慌ててスカートを押さえる佐緒里。

「もーお、花月ってばいやらしいんだからぁっ!」

 頬を膨らませ、抗議する佐緒里。花月は半身を起こすと、佐緒里の手を強引に引っ張った。

「わ、ちょっと、花月ぅ!?」

 体勢を崩し、花月の上に倒れ込む佐緒里。

「ねえ、さおりっち、僕は本当にさおりっちの事が好きなんだよ?」

 そう言って、花月は佐緒里の身体を優しく抱きしめた。

「ちょ、ちょっと、花月………」

 頬を染めて藻掻く佐緒里。しかし、花月のいつにない真剣な表情に、身体の力が抜け、次第にその身を預けていく。

 花月は佐緒里の身体から力が抜けたことを知ると、ゆっくりと顔を近づけていく。

「だ、駄目だよ、花月ぅ。こんな処じゃ………」

 反意は示すものの、佐緒里は逃れようとはしなかった。

 花月の唇が触れようとしたその瞬間。

「あら?誰かいるのかしら?」

 屋上の扉が開き、人影が現れる。昨日転校してきた美少女、櫻小路マリアである。

 慌てて飛び起きる佐緒里。しかし、花月はその事に気が付いていない。唇を蛸のように伸ばして佐緒里にキスを迫る。

「う〜ん、さおりっちぃ。ちゅ〜〜うぅっ、ほら、ちゅう………」

 花月の様子に、佐緒里は引きつった笑いを浮かべる。怪訝な表情を向けるマリア。

「あ、いや、え〜っと、櫻小路……さん?あの、これは、その……」

 決まりの悪い表情の佐緒里。首を傾げるマリア。

 花月はようやくマリアの存在に気が付いて、慌てて立ち上がる。

「あ、これは、マ、マ、マ、マリアさん、こぎゃんところでなんばしよっとですか?」

 訳の分からないことを口走る花月。

 そこへ、更には広瀬真奈美までもが姿を現した。

「あ、花月〜〜ぅ、こんな処にいたんだっ!!大変、大変ッ!!神矢君が、神矢君の家で昨日、大変だったんだよっ!!」

「わわわっ!真奈美ちゃん、一体どうしたの??」

 真奈美に抱きつかれ、よろける花月。佐緒里の眦が我知らず上がる。

「昨日、神矢君の家で騒ぎがあって、近所の人が不審に思って警察に連絡したら、そしたら、そしたら、な、なな、なんと、神矢君のお母さんの、腐乱死体が見つかったの。そりゃあ、もう、大騒ぎだったんだって!!」

 真奈美の言葉に、花月の顔が一瞬強張る。しかし、その表情は直ぐに消え、真奈美のお尻に手が伸びる。

 その瞬間、佐緒里のかかとが花月の足の甲にめり込んだ。

「◎×△☆々仝〃ゞ………!!」

 痛みに声を無くす花月。

「………な、何するの、さおりっち……」

「何をするも何も、それは花月が一番よく知っているでしょっ!!」

「え?なになに?花月、何をしたの??」

「変態、乙女の敵っ!!」

「あう〜〜、そりは言い過ぎで御座るよ」

 じゃれ合う少女達。

 しかし、マリアはそんな花月達の横を通り過ぎると金網の前に立ち、遠くを望んだ。

 花月の視線がマリアに吸い付けられる。

「この学校は……」

 風に髪を撫でられながら、マリアが呟く。

「この学校は、刺激に満ちていますわね……」

 そう言うとマリアは振り返り、にっこりと微笑んだ。

 それは、見るに眩しい妖精の微笑みであった。