○月という名の天使

 

第二話

 

「またあの感覚だ。内側から何かが這い出してくるような、胸元から嫌悪感が広がっていくあの感覚………。ずきずきとこめかみが痛み、欠陥が破裂しそうな錯覚に捕らわれ、嘔吐感がこみ上げてくる。全身の筋肉が小刻みに振動し、鳥肌が立ってくる。そして、耳の奥で耳鳴りが………。誰かが僕を呼んでいる。何かを命じている。内臓を吐き出しそうになりながら、僕は助けを求めた。母さん、母さん、………苦しいよ、助けて………。それでも僕は救われない。僕が救われる方法はただ一つ。耳鳴りに身を預けること。何かの命じるままに、命じるままに…………本能の赴くままに………殺せっ!!」

 

 林の中、逃げ惑う少女。それを追うのは不良学生でも、変質者でもなかった。大型の獣、或いは人。全身、黒光りする毛皮で覆われており、口元からは黄色く濁った牙が覗く。生臭い息を吐きながら、獣は少女を追った。

 少女は老坂中学の制服を着ていたが、その制服も今はぼろぼろであった。靴は片方脱げ、足は泥まみれ。上着やスカートは大きく裂け、柔らかな太股があられもなく覗く。白い肌には無惨なミミズ腫れ、ひっかき傷。

 少女はなりふり構わず必死で逃げたが、やがて、木の根に足を取られ、転んでしまう。

 すぐさま起きあがろうとして、少女は小さく呻いた。

「痛っ!」

 どうやら足を捻挫してしてしまったようだ。

 青ざめる少女。獣は用心しながらも、段々と間合いを詰めてくる。

 やがて、鼻を鳴らしながら、少女の股間に顔を近づける。むっちりとした太股から、柔らかくはみ出す白い下着。

 生暖かい息が股間をくすぐり、少女は息を詰めた。

 梢の中に身を潜め、様子を伺う花月。そこへ、蝙蝠がやってきて花月の肩に止まった。その蝙蝠は勿論、ミナの変じたものである。

「どうしたんです、花月様?早く助けませんと………」

 蝙蝠が花月の耳元で囁く。

 眼下にはむくつけき怪物。恐らくは、最近流行の狂犬の正体であろう。そして、その怪物に襲われているのは、他ならぬ花月の級友、広瀬真奈美であった。

「御学友ですか?」

 質す蝙蝠。花月はそれには応じなかった。

「なら、私が相手を引きつけますっ!!」

 そう言うと蝙蝠は、羽音をたてて飛びかかっていった。

 突然の襲撃者に、獣は不快な声を漏らすと、爪を立てて追い払おうとした。

 しかし、蝙蝠も良く心得たもので、爪の届かぬぎりぎりの範囲を巧みに飛び回り、相手を挑発する。

「グオォォッ!!」

 ついに野獣は釣られ、喉を鳴らし、ミナを追い掛け始めた。木々を巧みに避け、蝙蝠を追う野獣。しかし獲物は身軽で、爪がかすりもしない。

 野獣がミナを追い掛け、目の届かない処まで去ったことを確認すると、花月は音もなく梢から飛び降り、真奈美に駆け寄った。

「大丈夫?真奈美ちゃん………」

 真奈美の身体を支え、顔を覗き込む花月。しかし、真奈美は放心していて目の焦点はあっておらず、口元を小さく、小刻みに動かしている。

「真奈美ちゃん!!」

 花月はさらに大きな声で真奈美を呼んだ。

「えっ!?………花月?」

 真奈美はきょとんと目を剥き、花月の方を見る。胸の中に安心感が溢れ、不意に涙がこぼれ始める。ぽろぽろと涙をこぼしながら、花月の顔を見つめる真奈美。

「うわあああ、怖かったよぉっ!!」

 すがりつく、と言うより殆ど体当たりのような勢いで真奈美は花月に飛びついた。思わずひっくり返りそうになる花月。

「も、もう大丈夫だからね、真奈美ちゃん」

 真奈美から立ち上る甘い少女の体臭に、花月は思わずうわずった声を上げた。柔らかな真奈美の身体にそっと手を回してやるが、脳裏に佐緒里の顔が浮かび、思わず手を引っ込める。

「あ、いやいや、浮気だなんて滅相もない………」

 思わず一人ごちる花月。

 そんな花月の様子に、真奈美は一瞬怪訝な表情を浮かべた。

「おほん、あはん、えへん………。あ、いやいや、それよりも真奈美ちゃん、大丈夫?」

 花月の問い掛けに、真奈美は小さくこくりと頷くと、上目使いに花月を見上げる。いつもの真奈美の表情と違い、その憂いを帯びた表情は殊更少女を愛らしく見せた 。

「(色即是空、空即是色………)」

 頭の中で読経し、煩悩を追い払おうとする花月。

「あ、いや、ほら、制服破れちゃって大丈夫?大体、真奈美ちゃん、どうしてこんな処に?」

 何とか自制心を保とうとしながら、花月は取り敢えず色々と質問を繰り出した。

 ようやく気が落ち着き始めたのか、真奈美は花月の胸から顔を上げると、小さく舌を出した。その悪戯っ子のような表情は、いつもの真奈美のそれである。

「あは、話の種を探しに、ね………」

 真奈美のその言葉に、花月は溜め息混じりの呆れた声を出した。流石はピンクのマシンガン、並の神経ではない。

「あのさぁ、真奈美ちゃん?話の種を探しに来て、野犬に殺されたら、どうするつもりなの?」

 花月に窘められ、真奈美は首をすくめる。

「でもね、花月。広瀬の一族ってちょっと変わってるの………」

「は?」

 突然、一族何のと言われ、花月は思わず首を傾げた。

「昔から、うちの一族って変わってて、噂話や不思議な話、変な話の為には命をも投げ出す勇敢な家系なんだって」

「(それって、勇敢というのだろうか………?)」

 花月は思わず口の中で突っ込みを入れた。しかし、真奈美はそんな花月の様子をまるで意には介さない。思いつくまま気の向くままに、口を動かす真奈美。

「何も無い退屈な日常よりも、何かあって、面白い異常の方がずっとずっと楽しいと思わない?もし仮に花月の言うように、これで死んじゃっても、それがとびきり面白くて、誰も体験したことのないような変わった死に方なら、それはそれでわくわくすると思わない?もちろん、野犬に喰い殺されるなんてあまり面白い死に方じゃないし、多分、他の面白い死に方に比べて、それはずっとずっと退屈な話にしかならないと思うの。でも、これがお化けやら怪獣なら、それはそれでずっと面白い話になると思うの」

 いつもの真奈美の調子に戻り、思わずたじろぐ花月。

「あ、あのさ、真奈美ちゃんって、怖いとか思ったことないの?」

 花月の口を突いて出た言葉に、真奈美の口が思わず止まる。

「実は、私もそれを常々考えていたの。私が怖いと思うのは、今みたいに面白くない死に方をしそうになる時か、最後に見た面白い事の他に実はそれよりもずっと面白い事があった時とか、あと、私が面白い死に方をして、私以上にその面白さを伝えられる人がいない時ね。私が安心して死ねるのは、私がこれ以上はないと言うくらい面白い死に方をして、それを私以上に話し上手な人が克明につぶさに見ている時だと思うの………」

 真奈美のお喋りに、流石の花月も段々と顔が引きつり始める。

「そ、それだけ元気なら心配ないよね。僕はちょっと用事があるから、もう一人で大丈夫?」

 そう言って真奈美から離れようとする花月。しかし、真奈美は口をつぐみ、花月の上着を掴んだまま放さなかった。

「………だめ、………まだ一人にしないで」

 一瞬、意外な顔をする花月だったが、真奈美の膝がまだ震えていることに気が付き、くすりと笑みを漏らす。

 

 一方で、ミナは花月達から離れたところで少女の姿に戻った。くるりと身体を回転させ、長い黒髪が宙に舞う。

 獣は一瞬、虚を突かれ、そこへ何処から取り出したのかミナは黒いニードルを獣に放った。

 獣は身を翻し避けようとするが、左肩に数本を受け、苦悶の咆吼を上げた。

 ぐああああああっ!!

 獣は怒り、身体を反転させてミナに飛びかかった。

「しまったっ!?」

 影がミナの横をかすめたかと思うと、ミナの肩がざっくりと裂け、赤い血が滲む。

 肩を押さえて飛びすさるミナ。指を黒髪に掻き入れると、ミナの手には黒いニードル数本が握られていた。

 が、獣も二の轍は踏まない。障害物が多い林の中でありながら、ミナの周囲を巧みに飛び回り、狙いを定めさせず、次第にその間合いを詰めていく。

 ミナは緊張した面持ちで相手を探った。相手の位置は掴めているものの、このままの状態では勝ち目がない。花月が友人を放ったままにするとも思えないし、この林の中では車椅子のヘルシングも応援には来られないだろう。

 途方に暮れるミナに、獣は唸り声を上げて飛びかかった。

 ミナは慌ててニードルを放ったが、虚しく空を切る。

 縦横無尽に、ミナを翻弄する獣。寸手の所でかわしているが着衣は裂け、所々肌が露出する。

「きゃっ!?」

 次の瞬間、ミナは小さな悲鳴を上げた。

 胸元が大きく裂け、白い乳房が露出したのだ。慌てて胸元を隠すミナ。

 獣の動きが止まり、ミナはそれが嘲弄の瞳を向けたように思えた。

 獣は更に次の一撃を加えるべく、頭を低く構えたが、ミナの様子がそれまでのものと違うことに気が付き、警戒の喉を鳴らす。

「………もう、手加減なんかしないんだから」

 怒りを露わに、小さく呟くミナ。額に赤い痣、十字架の痣が現れ、ミナの身体がざわざわと変化していく。身体が大きく膨らみ、弾け飛ぶ衣服。

 次の瞬間、獣は二匹に増えていた。

 ミナが銀色の狼に姿を変え、敵に襲いかかったのだ。

 互いの喉笛を食い破ろうと、二匹の人狼は牙を剥き、絡み合った。

 しかし、両者共に必死の攻防を見せ、決め手に欠けた。そこへ、均衡を崩すように怪物が強靱な後ろ足でミナを蹴り飛ばした。

 木に激突し、倒れる銀狼。

 あわやという瞬間、林の中に花月の声が響き渡った。

「ミナちゃん、大丈夫ッ!?」

 花月の声に、これ以上の戦闘は分が悪いと悟ったのか、怪物はミナにとどめを刺さず、その場から立ち去った。

 ふらふらと立ち上がり、変化を解くミナ。

 そこへ、がさがさと枝を踏み鳴らしながら、花月が姿を現した。

「あっ、花月様。こちらへは来ないでッ!!」

 花月を制しようとしたミナではあったが、一瞬遅く、一糸纏わぬ裸身を花月に晒してしまう。

「あ、あの、………獣化したものですから、その………花月様?」

 取り敢えず局部を手で隠し、事態の説明をするミナ。しかし、花月はまるで聞いている風もなく、ミナの裸を凝視している。

 ふと、ミナは花月の足下に何かが転がっていることに気が付いた。それは非常に小さな白い袋。その袋には赤い文字でこう記されていた。

―“理性”―

 次の瞬間、花月はミナに襲いかかっていた。逃げようとして転ぶミナに、花月は鼻息を荒くして覆い被さる。

「きゃあっ!お、おやめ下さい、花月様ぁ!?……あんぅっ!!」

 何とか花月を引き離そうと、ミナは必死に相手を押しやるが、花月はまるで蛸のように絡み付いて離れようとはしない。先程、真奈美に働かせた自制心の反動が、此処に来て花月を駆り立てているのだ。

「ミ、ミナちゃん、僕はもう、僕はもう………」

 まるで安物の昼メロのような科白を唱えながら、花月はミナの白い首筋に唇を這わせる。

 目に涙を浮かべ、頬を紅潮させるミナ。その可憐な恥じらいの風情が、花月の欲望をますます煽り立てる。

 しかし、次の瞬間、花月の腕の中からミナの姿が消えた。白い煙に唇を寄せ、地面とキスをする花月。

 頭の上では大きな蝙蝠がくるくると輪を描いている。

「もう、知りませんっ!!」

 

 翌朝。

 佐緒里を拝むようにして、花月は何やら懇願していた。

「だって、それは花月が悪いんでしょ?昨日あれほど言ったのに………」

「いや、だからさ、僕はちゃんと覚えていようと努力はしたんだよ。でも、ほら、僕って色々と忙しい人だから………」

 昨日、花月は宿題のことを忙殺され、佐緒里に写させてくれるよう頼み込んでいるのだ。

「無理だって、………数学の授業は一時間目なんだよ?いくら花月が早く写したって、間に合わないって。取り敢えず、ノートは貸して上げるけど、一番最初に宿題が集められたらアウトだからね」

「ははあ、恩に着ます、神様、佐緒里様ぁ………」

 恭しくノートを受け取る花月。

 そこへ、お喋りの権化、ピンクのマシンガンと呼ばれる少女、広瀬真奈美が姿を現した。

「花月、花月、花月ぅっ!!」

 花月の名前を連呼しながら、腕にまとわりつく真奈美。いつもと違う真奈美の様子に、佐緒里は訝しげな表情を浮かべる。

「ありゃりゃ、こりは真奈美ちゃん、今朝も元気そうで何よりだね」

 いつもの調子でふざける花月。昨日の事件を感じさせない真奈美の様子に、花月は内心安堵していた。

「あはは、花月のお陰だよ。………それよりさ、今日、転校生がうちのクラスに来るんだって」

 花月のお陰?

 真奈美の言葉に、佐緒里の耳がぴくりぴくぴくと反応する。

「いやぁ、流石に早耳だね。で、女の子?それとも可愛い女の子?」

「もーうっ、花月ってば、女の子のことしか頭にないの?でも、今回ばかりは花月のご期待通り、女の子だそうよ。それも、ブロンドのすごく可愛い娘なんだって」

「ほっほう、外人さんですか?」

「そ、櫻小路マリアって、イギリスからの帰国子女なんだって。でもね、花月………」

「はい?」

「………あんまし、浮気はしないでね」

 そう言うと、真奈美は花月の頬に軽く唇を触れた。

「昨日のお礼だよ♪♯」

 僅かに頬を赤らめて、真奈美は教室の中に入っていった。呆気にとられる花月。凝固する佐緒里。

「昨日のお礼………ねえ」

 ぎしぎしと歯車の軋む音を立て、佐緒里が呟く。

「成る程、確かに花月さんは忙しい人ではあるようね」

 もやもやと不気味なオーラを発しながら、佐緒里が言葉を重ねる。

 緊張が走り、花月の頬を一筋の冷や汗が伝う。

「い、いやだなぁっ、さおりっち。花月さん、だなんて………」

 そう言って、薄ら笑いを浮かべる花月。

 しかし、佐緒里は思いきり花月の足を踏みつけると、数学のノートを取り上げて一人教室の中に入ってしまった。

 一人、取り残される花月。

「ち、ちょっと待ってよ、さおりっちぃ!!誤解なんだってばぁ………」

 

 暗闇の中、ベッドの上で身体を丸めるミナ。体中に汗を滲ませ、苦しそうにシーツを握っている。

 ふと、ノックの音がして、ヘルシングが扉を開ける。

「軽はずみに獣化をしてはならないと、常々言ってある筈だが?蝙蝠と違い、あれは血が活性化する」

 きいきいと甲高い音を立て、車椅子のヘルシングはベッドの傍らに進んだ。

「………すみません」

 苦しそうに息を吐きながら、言葉少なに応えるミナ。

「謝ることはない。ただ、獣化して苦しむのはお前であろう?血を抑制するのに骨が折れる。………で、昨日の奴は一体?」

 ヘルシングの問い掛けに、ミナは身を起こし、老人に向き直る。

「あれも獣人でしたが、それがノスフェランなのかどうか。自我を損失しいる風でもありました。単に先祖帰りを果たした獣人の可能性もあります」

 ヘルシングはミナの言葉を受けて、軽く息を吸うと、腕を組み直した。

「或いは、誰かに獣化させられたのか。………始祖の気配は感じなかったのか?」

 ヘルシングの言葉に、ミナは首を振る。

「少なくともあの場には始祖の気配も、もしくはそれに匹敵するほどの、デビルの気配も感じませんでした。………教授はこの事件の背後に始祖が潜んでいると?」

 ミナの問い掛けに、ヘルシングは軽く頷いた。

「うむ、それが始祖なのか、それとも他のノスフェランなのかは分からんが、そのクラスの大物はいるだろう。あの学校の障気はただ事ではなかった。花月も薄々それに気付いている筈だ。問題はその獣人とノスフェランが関係しているかどうかだ。単に障気に触れて覚醒しただけの、小物かも知れんからの………」

「でも、それだけの障気を吐き出す大物はいる。それは確かなのでしょ?だとしたら、それが始祖である可能性もあるわけですね?」

 そう聞き返すミナ。心なしか、その表情には熱意が見られた。

「お前が始祖を早く見つけたいと、そう思う気持ちは分かるが、それは希望的観測というものだ………。儂も早くお前を元に戻してやりたいとは思うが」

 憮然と告げるヘルシング。その言葉に、ミナは眉根を寄せて、口を引き結んだ。

「私は、自分の事などどうでも良いんです。私はただ………」

 言いよどむミナ。ヘルシングは片方の眉を上げると、溜め息混じりに口を開いた。

「またマリアの事か………。あやつはお前のことを恨んでおる。お前を見つけたら、殺しかねないんじゃぞ?」

 ヘルシングの言葉に、ミナの肩がぴくりと反応した。

「………マリアになら、殺されても良い」

 沈んだ表情で、呟くミナ。ヘルシングは溜め息をつくと、車椅子を回して部屋を出ていった。

 暗闇の中、ミナはシーツをたぐり寄せると、顔を埋めて肩を震わせた。

 シーツの中から、くぐもった呟きが洩れる。

「………マリア」

 

「諸君に新しい友人を紹介しよう」

 満面の笑みを浮かべ、禿頭に教室のライトを反射させ、柳川善蔵はそう告げた。

 柳川善蔵の手が扉を指し示すと、そこから蜜色の髪をした、愛らしい少女が姿を現した。

「マリア君、入ってきたまえ」

 柳川の言葉と共に、少女は教壇へと進んだ。

「櫻小路マリア君だ。みんな仲良くするように」

 柳川がそう紹介すると、少女はぺこりと優雅にお辞儀をし、花のように微笑んだ。

「櫻小路マリアです」

 その鈴のような声が耳元をくすぐり、今まで固唾を飲んで見守っていた花月の相好がぐねぐねと溶け始める。傍目にも分かる位に舞い上がる花月。

 花月は気が付いていないが隣に座る佐緒里は口をへの時に引き結び、頭からは気炎を吹き上げている。

「では、取り敢えず、一番後ろの席に座ってくれたまえ」

 柳川善蔵の言葉にマリアは軽く会釈すると、全員が注視する中、自分の席へと歩き始める。

 ふと、マリアは花月の横まで来ると、にっこりと微笑んだ。

「よろしくね」

 その言葉に、完全に舞い上がる花月。

「あ、いや、はあ、まあ、その、何と言いますか、こちらこそ………。僕、納豆は好きです、はい」

 のぼせ上がった花月は、訳の分からないことを口走る。

 しかし、既にマリアは通り過ぎ、自分の席に腰を下ろしていた。

 佐緒里は花月の肩を思い切りつねるが、花月はまるで気が付かなかった。

 大きく溜め息をつき、呆れる佐緒里。

 

 放課後、花月はミナと共に学校の近辺を捜索していた。

 手掛かりはミナの嗅覚のみという何とも頼りない状況であったが、それも仕方なかった。

 尤も、ミナが文字通り狼並の嗅覚を持っていること、そして彼女は敵と格闘しているといったことは救いではあった。

 ともあれ、不審な家がないか、花月達は当て所無く歩き回った。

「あの狼男、本当に学校の近くに潜んでいるのかな?」

 ひっそりとした住宅街の真ん中で、花月は立ち止まった。

「まあ、被害者は老坂中学の生徒に集中してますし、出没地点もこの周辺に限られています。この辺りから探し始めるのが妥当だとは思いますが」

 立ち止まり、ミナはそう応えた。花月達の中学に、魔物がいる可能性をミナは伝えなかった。それを伝えることを、ヘルシングは快く思わないだろうし、花月ほどの能力を持っていれば、言うまでもないことだろうと考えたのだ。花月は飄然としているが、それでいて侮れないことをミナは良く心得ている。

「あれぇ、花月じゃない?」

 少女の呼び掛けに、思わず振り返る花月。ミナも釣られて振り返る。

「え?真奈美ちゃん?」

 そこに立っていたのは、ピンクのマシンガン広瀬真奈美であった。

 一度家に戻ったのか、トレーナーに黒のミニスカートという出で立ちで、大きな犬を連れている。

「それ、真奈美ちゃんの犬?可愛いね」

 花月は物怖じせずに手を出すが、そのふてぶてしい面構えは、花月でもなければ手を出さないだろう。

 噛み付きこそしないものの、犬は喉を鳴らすでもなく、憮然としてあらぬ方向を見つめている。

「ふふふ、めっかいの頭を撫でるなんて、花月くらいなものね」

 しゃがみ込み、真奈美も犬の喉をさすってやる。

「めっかい?この犬の名前?」

 花月は犬の頭を撫でながら、真奈美の健康的な膝小僧や、白い太股、その奥にまで目を走らせた。

「(真奈美ちゃん、今日はピンクの水玉かぁ。うん、やっぱ水玉も良いなぁ………)」

 花月は口に出さずに呟いた。

「うん、めっかい。面白い名前でしょ?お祖父ちゃんの、そのまたお祖父ちゃんが名前を付けたんだって」

「へ、へえ、長生きな犬なんだね?」

 真奈美に話を振られ、慌てて目を逸らす花月。

「まさか、お祖父ちゃんが言うには六十何代目かの由緒正しい犬なんだって。………ところであの人、花月のお友達?」

 ふと、ミナに目をやる真奈美。ミナはそれに応じ、軽く会釈する。

「え?ああ、ミナちゃん。えっと、親戚の子………」

「ミナです」

 改めてお辞儀をするミナ。

「ふう、ん………よろしく。私、広瀬真奈美」

 真奈美はそう言うと、ミナをじっと観察した。居心地悪そうに、視線を泳がすミナ。

「ねえ、花月。ミナちゃんって、外国の人?」

「え、え?なんでそう思うの?」

 僅かに狼狽える花月。

「だって、ちょっと日本人離れした感じがするから………」

 真奈美は口の中で小さく、プロポーションが、と付け足した。

「あ、いやいや、ミナちゃん、こう見えても日本人。生粋の江戸っ子の浪速っ子………」

 どうでもいい嘘をつく花月。ミナは思わず首を傾げる。

「へえ、そうなんだ?」

 言いながら、ミナに視線をぶつける真奈美。真奈美の視線に冷たいものを感じ、ミナは思わず顔を逸らせる。

「それはそうと花月、その先の家が、この間話してた神矢何とかの家」

「神や何とか?」

 覚えのない言葉に、花月は思わず首を傾げた。

「やだ、覚えてないの?………まあ、私もどうでも良いこと思い出したと思っているんだけど……。ほら、うちのクラスでずっと休んでる子」

「おう、そう言えばそんな話もあったね」

 不意に花月は立ち上がると、その件の家に向かって歩き出す。

「ちょっと、花月?」

 慌てて花月の後に続く真奈美、ミナ、そしてめっかい。

「まあ、近くまで来たついでなんだから、ちょっと見ていこうよ」

「ちょっと見ていこうよって、何にもないよ?」

 真奈美の言葉に、花月はまるで頓着しない。

「これが、その神や何とかの家か。………なんだか普通の家だね」

 呑気に家を覗き込む花月。しかし、家は全てカーテンが閉まっており、人のいる気配がしない。

「当たり前じゃない。お化けでも出ると思ったの?」

 真奈美の言葉に、花月は笑みを浮かべて応じる。

「まさか。真奈美ちゃんはロマンチストだね」

 そう言うと、花月はめっかいを見やる。めっかいは不快な表情を露わにし、低く喉を鳴らしている。ミナも、何事か言いたそうではあったが、花月は知らぬ振りをした。

「それじゃあ、真奈美ちゃん、また明日学校でね………」

 そう言うと、花月はミナと共にまた別の方向に歩き出した。

 後に取り残され、首を傾げる真奈美。

 しかし、その数刻後、花月は再び神谷の家の前に立っていた。勿論ミナも一緒である。

「さて、ちょっくら気合い入れていきましょうか………」

 花月はそう言うと、玄関の扉に手をかけた。